ご当地グルメうまいもの情報/B級グルメから調味料まで

うまいものを食べると、なぜか幸せになります。 うまいものが大好きな人のために、ご当地グルメや特産品、人気の食品や話題の商品など、 うまい食べ物の情報を紹介するブログです。

2013年10月

戻りカツオのおいしい時期になってきましたが、
カツオはかなり昔から食べられていたらしく、万葉集にカツオを詠った歌が載っています。

当然、当時は一本釣りしかないんでしょうが、豪快な一本釣りで有名なのが、土佐の高知。

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土佐では、古くから、保存食として干したカツオが食べられていたんだそうです。

干せば堅くなります。堅い魚⇒鰹となったんだとか。

当時は献上品になっていたほどの名物だったようですが、
戦国時代、長宗我部軍は戦場での携帯食としていたようです。

と同時に戦のお守り、戦勝祈願の縁起物でもあった、とのことです。

理由は?

鰹節=勝男武士。なるほど。

江戸も中ごろになった時、土佐藩では食中毒が頻発、
そこで山内家では、カツオの刺身を食してはならん、とお触れを出しました。

当時の道路事情を考えれば、魚を刺身で食うというのは、どんな魚であれ、危険は伴っていたとおもいますが…

食べてはならん、と上から言われれば、余計食べたくなるのが人情。
ましてや「異骨相(いごっそう)」といわれる反骨精神旺盛な土佐っ子のことですから、
表面だけ焼いて、刺身じゃないと言い張って食べたそうです。

ところが意外や意外、これがうまかった。

こうして土佐のご当地グルメ、カツオのタタキが誕生しました。

mainimg_8Ca1111おいしい海の幸が、産地直送でいっぱい食べられます。
通販ならでは各地の名産をお楽しみください。
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鯨を一頭獲れば、7つの里が潤う、と昔から言われてきましたが、
頭から尻尾まで、残すことなく食べていたそうです。

特に美味といわれているのが、「尾の身」と呼ばれている尻尾の部分、古くは「おばいけ」と呼ばれていたようです。
『貞丈雑記』という本には、鯨の氷頭(頭の骨)をカンナで削って乾燥させ、酢と醤油をかけたり、吸い物にして食べた、とあります。

骨まで食べちゃうんだ。

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紀州は鯨漁が盛んで、「網取り法」という独自の漁法を編み出し、これにより捕獲量は飛躍的に上がったそうです。
4~500艘もの舟で追い込む漁法だったようで、なんとも豪快な景色だったことでしょう。

紀州藩初代藩主、徳川頼宣は、これが大好きだったようですが、水軍の訓練と思われ、幕府から睨まれたという話です。
それでも紀州藩は鯨漁を奨励し、「鯨方」という専門の役所まで作ったそうです。

紀州の漁師たちは自分たちが編み出した「網取り法」を企業秘密にしないで、各地に教え広めたそうです。
これにより、多くの人たちが助けられたことでしょう。
何せ、一頭で7つの里が潤うくらいですから。

実はしょう油と鰹節は紀州が発祥の地だそうで、紀州人たちはこれらも惜しむことなく伝えたので、各地に広まりました。

日本のグルメの柱となるダシとしょう油が広まることで、江戸中期期以降、日本の料理はいっきに開花しました。

いま私たちがクールジャパンとして日本料理を外国に自慢できるのも、B級グルメやご当地グルメに舌鼓を打つことができるのも、みんな紀州人のおかげなんですね。感謝!

*ABS朝日「歴史発見 城下町へ行こう」より


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鯨のお肉が食べたくなった人は、こちらから買ってね。

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捕鯨に関して、何かと外国からの風当たりが強いようですが、
捕鯨がいつから始まったのかは、寡聞にして知りません。

文献に残っているのは江戸時代からのようで、
浮世草子の『世間長者気質』や、井原西鶴の『日本永代蔵』なんかにも、捕鯨のことが書かれているそうです。

鯨に関することを詠んだ川柳なども数多く残されています。

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小さいころは鯨肉が安かったんでよく食べさせられたんですが、今房州という海の近くに住んで、クジラのタレというのをはじめて食べました。
タレというのは、後味処理をしていないクジラジャーキーみたいなものです。

最初のときは変な臭みあって閉口しましたが、別の折に食べたものは臭みがなく、独特の食感と甘みがあって、こちらはイケました。
今クジラのタレを頼むときは、半分賭けのつもりで注文します。

土佐の高知では古くから捕鯨が盛んだったそうで、長宗我部元親が太閤秀吉に、クジラ一頭丸ごと贈った、なんていう豪快な話も残っています。

また、土佐では一年の締めくくりにクジラを食べる習慣があるそうです。
ほかの日本人が、細く長くを願って年越しそばをいじましく食べているとき、
土佐っぽは、おっきな夢を食おうと、酒を片手に鯨肉を口に運ぶんだそうです。

そういえば、土佐人の気質は、「異骨相(いごっそう)」、頑固で一本気のことを言うそうで、
女性は「八金」、つまり男性の股間にぶら下がっている袋状のものの中身を8つ、4人分を手玉に取る、という意味だそうです。
クワバラ、クワバラ。
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「海の宝石」とも「グリーンキャビア」ともいわれる海ぶどうですが、
沖縄県恩納村のご当地グルメ「海ぶどう丼」は、メディアで紹介され、有名B級グルメの仲間入りを果たしました。

しかしこの海ぶどう、養殖に成功するまでには、5年もの月日がかかったそうです。

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沖縄といえば、有名なのはモズク。
モズクの養殖は盛んだったそうですが、海の中での長時間労働が強いられ、大変な重労働なのだそうです。
(「あまちゃん」でも、簡単には海の中に潜れなかったので、海中作業というのは、かなり体力を使うのかもしれません。)

歳を重ねた人たちでも作業ができるように、陸の上で養殖できるものはないか、
そう思い立った男が海ぶどうに出会い、平成元年から陸上養殖に取り組み始めました。

当時、海ぶどうはメジャーではありませんでした。
そんな中、養殖に取り組もうとした勇気に乾杯です。(多分、周りからはいろんなことを言われたと思います。)

ところがこの海ぶどう、
光合成する生き物なんで、光の量が多すぎても少なすぎてもダメ、お天気に合わせて光量の調節が必要で、
しかも陸の上だから栄養不足になるから、チッソやリンなどの肥料を与え、
一日でも面倒を見ない日があると、成長にムラが出るという、なんとも手間のかかる厄介なもの。

試行錯誤の上、5年をかけてようやく養殖の一連のプロセスを確立しました。
しかしまだ問題が…

単細胞でできている海ぶどうは、収穫した時、切り口からヌメリが出て、そのままだと数時間で死んでしまうんだそうです。
そこで3日かけて海水の中で傷口を癒してやり、これでやっと商品に、
と思いきや、
難敵海ぶどう、熱に弱く、冷蔵保存しても萎んでしまうという、きわめて扱いにくい食材でした。

これでは飲食店も二の足を踏みますが、養殖に賛同して取り組んできた地元の人たちの努力で、ようやくホテルでお土産といして扱ってもらえることになりました。
すると徐々に名前が知れ、人気ご当地グルメになりました。(よかったよかった。

そして農林水産祭(といものがあるんだそうです。)、水産部門で、なんと天皇杯受賞、お上からもお墨付きを頂き、沖縄を代表する食材の一つに認められました。

いろんなメディアでも紹介され、「海ぶどう丼」は大スターになって、国内外からこれを目的に人が訪れるようになりました。

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沖縄の名産品「海ぶどう」は、「海の宝石」とも、グリーンキャビアとも呼ばれているんだそうです。
恩納村のあるお店が、この海ぶどうを丼ぶりにして、B級グルメとして、日本全国ばかりでなく、海外からも食べに来るそうです。

もっとも、海外といっても、台湾の人が多いみたいですが… 
(台湾、近いから。)(憎まれ口、終了。

酢飯の上に、相性のいいウニと山芋とイクラを豪勢に盛って、レモンポン酢でいただくんだそうです。

これが後を引いて、リピーターになっちゃうらしいです。

まぁ、食べるのは簡単なんでしょうが、この、ご当地グルメとして簡単に食べられるようになるまでが、大変な苦労だったと、ABS朝日の「日本食紀行」で紹介されました。

なにせ、海の中で育つものですから、護岸工事による水質の変化や、台風による被害など、
1980年代後半に試みられた海中養殖はことごとく失敗だったそうです。

生ものだけに流通せず、せっかくの珍味が宮古島の一部でしか食べられていなかったそうです。(もったいない…)

なんとか海ぶどうをご当地の特産品として、全国に売り出したい、高齢になって海に潜れなくなった人たちでも働けるよう、陸上で養殖したい、と立ち上がった男がいました。

海ぶどうは非常に繊細で、養殖が困難なものなんだそうです。
ご多分に漏れず、初めのうちはアホだの変人だのと、いろいろ言われたみたいです。
成功したら偉い人。世間なんて、そんなもんです。
(今回、憎まれ口が多いみたいたいで… スンマセン)

いまや地元のホテルの人気お土産No1になりました。
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羊羹の原型は、今の姿とは似ても似つかない古代中国の羊肉の羹(あつもの)でした。

日本では、大名や公家の間に最高級のお菓子として伝わり、元禄時代には「御菓子之絵図」という商品カタログみたいなものまで作られていたそうです。
模様に工夫を凝らしたり、自然や、文化、干支、四季などを織り込んだりと、いかにも日本的なお菓子として親しまれてきたようです。

外はシャリッ、中は柔らかという羊羹の今の形は、江戸後期の佐賀県で生まれたそうです。

江戸時代、白砂糖は100%輸入品で、長崎から小倉まで砂糖を運ぶ長崎街道は、別名シュガーロード。
その中継地にある佐賀県は、昔から砂糖を多く使う文化があったそうです。

佐賀県小城市、ここはヨウカンの町とも呼ばれ、なんと2k圏内に伝統的な羊羹を売る店が21件もあるんだそうです。

実は小城市では、昭和27年ころから「小城ヨウカン」をブランド化しようという動きがあったそうです。
小城ヨウカンの特徴は表面に細い筋目が何本もあること。
これは製造の過程に、箒で表面をやさしく傷つける工程が含まれているためなんです。
こうして表面に傷をつけると、砂糖が浮き出て、1mmほどの層を作り、それが固まって表面だけが硬くなる、という繊細な技術で作られています。

伝統の味、一度は味わってみたいものです。

ちなみに、羊羹はカロリー栄養価共に高く、変質しにくいことから、備蓄用の保存食としても優れているそうです。
若田光一さんは宇宙まで持っていきました。羊羹なら、無重力も関係なく、地上と同じにいただけます。
先日、いい年をして(失礼)、最高齢でエベレストに登った三浦雄一郎さんは、健啖家としても知られていますが、羊羹大好き人間だそうで、エベレストにももっていたそうです。
地上よりはるか上で、白い雪渓の中で羊羹を丸かじりする豪快な姿は、想像するだけでも愉快です。

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全国のB級グルメがお取り寄せできる、便利なショップです。
ぜひご利用ください。
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NHKの「うまいッ!」という番組で、羊羹の特集がありました。

古くからあるスイーツだけに、各地の特産を活かしたさまざまな種類があります。
ご当地グルメ、オンパレード!

北海道では昆布、青森は当然りんご、千葉では蒸し栗、柿食えばぁ~の古都奈良では柿、変わったところでは山梨の竹炭、ん? 竹炭、どんなものなんでしょう。和歌山は梅(わかりやすいな~)、沖縄は紅イモ、などなど。

山口では夏ミカン、中身をくりぬいて作り、皮は砂糖浸けにして元の姿に戻すそうです。
山口の夏ミカン、関ヶ原の戦いで敗れた長州藩は、安芸広島120万石から萩の30万石に減俸、家臣の俸給も激減したため、庭に成り物を植えて生活の足しにした、という話がありますが、夏ミカンが特産なのもそういう理由?

特産ばかりでなく、他のものでアイデンティティを主張しているものもあります。
山梨では富士山の形、石川では三色羊羹(彩が特徴)。

まぁ、餡と寒天と砂糖を入れれば、羊羹になるわけで、なんでもありです。

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ヨウカンは、漢字で書くと羊羹。
ずーっと不思議に思っていたのは、ヨウカンと羊と、どういう関係があるのか、です。
漢字は表形文字ですから、必ず何らかの関係があるはずなんです。

その疑問を、番組が答えてくれました。

古代中国の羊の肉を使った羹(アツモノ)が起源なんだそうです。「羹に懲りて、膾(ナマス)を吹く」、というあれです。

この羹が鎌倉から室町にかけて日本の僧侶に伝わり、お坊さんは肉を食えないので、小豆になった、これが原型ということです。

なるほど、羊羹、羊と羹そのままです。
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ゆで卵の中で、黄味と白味が逆なっている不思議な卵料理、「黄味返し卵」。
記載されている「万宝料理秘密箱」の方法では、作ることができません。

でも、当時はできたんです。だから載っているんです。

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実は、江戸時代の卵は有精卵。現在売られている卵は無精卵。
この違いが、できるできないの差だったんです。

有精卵は、成長の過程で、黄味が周りの栄養を吸い取って、だんだん大きくなるんだそうです。
白味は水分を取られて小さく堅くなる。

糠味噌に浸けておくと、糠の発酵温度が38度で、ちょうど親鳥と同じなんだそうで、卵が成長します。
黄味が大きくなった状態で、針を刺して黄味を割ると、白味が黄味の中で浮遊している状態になります。

そのまま茹でると、「黄味返し卵」ができるわけです。

では、無精卵ではできないのか。
できるんです。考えた人がいます。暇なのか偉いのかよくわかりませんが、遊び心だけは十分持っています。
京都女子大の、八田一教授です。

教授の考えた方法は、

1)卵をストッキングに入れ、両端を手で持って高速で回す。
2)懐中電灯で透かして見て、卵が透けて見えなければ成功。
3)菜箸で転がしながら茹でる。

ただ、この方法で完璧に作るのは難しいそうです。

何年前になるのかも忘れてしまったんですが、この方法が発表されたときに、TVのニュースで報道され、再現実験もやったのを見てたんです。

江戸時代に、黄味と白味が逆のゆで卵を創ろうと思いついた人がいて、それを完成させ、本に載せ、200年近くたってそれを読んで再現させようとして、別な方法ではあっても再現に成功した人がいる。

なんとも愉快な話はありませんか。

*『謎解き 江戸のすすめ』より。

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江戸後期に「万宝料理秘密箱」という料理本があります。
卵の部は通称「卵百珍」、103種類の卵料理が載っています。
この中に、驚きの卵料理があります。
「黄味返し卵」―ゆで卵にすると、白身と黄身が逆になっている、つまり、黄味の中に白味がある卵なんです!

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「黄味返し卵」は幻の料理といわれています。
めったにお目にかかれない料理、というわけです。

本に書かれた作り方を見ると、

1)新しい卵を糠味噌へ3日ほど浸けておく。
2)針で頭に穴をあけ、茹でる。

これだけです。

しかしこれでは絶対にできません。幻の卵料理といわれる所以です。

卵の黄味と白味の分量は、1:2になっています。
「黄身返し卵」を作るには、黄味が白味より多くならなければならないんだそうです。

だったら、本には嘘が書かれていたのか。
いえ、江戸時代にはできたんです。現代だからできなんです。

なぜ?

*『謎解き 江戸のすすめ』より。

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江戸時代も中ごろの宝暦年間(1751~1763)にもなると、食は上方ではなく江戸、といわれるほど、食文化が発展したそうです。

現代のどこぞの国と同じように、レシピ本が続々と出版されるようになりました。

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天明2年、「豆腐百珍」という本が刊行されました。なんと、豆腐料理が100種類。
これが売れたもんだから『百珍』ものが次々と出ました。
「大根百珍」、「甘藷百珍」etc。

それらの中で、究極のグルメ本が、「料理珍味集」(作者不明)だそうです。

なにせ、紙まで食べちゃお、というものです。

紙で作る料理名を、”目くり餅”というんだそうです。
和紙は、コウゾの皮をたたいて伸ばし、もち米を加えて作るんだそうで、もち米が入ってるんだから、食えないわけがない、という乱暴な料理です。

江戸っ子は、食えるものなら何でも食べます、ただしコタツはいけません、あれは当たるものから。
落語ネタです。失礼しました。

”目くり餅”の材料は浮世絵などに使われた奉書紙というものだそうで、紙は貴重だったので使い回ししたわけです。

作り方:
奉書紙を3日間水に浸ける。
線維が溶けやすくなり、紙についた墨なども流れ落ちる。
紙をちぎって細かくし、葛を混ぜてこね、餅にする。
出来上がった団子を味噌汁で煮る、
んだそうです。

再現したものをスタジオでMCさんが試食しましたが、一口でギブアップでした。

*『謎解き 江戸のすすめ』より。

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『謎解き 江戸のすすめ』から、江戸グルメの続き。

江戸で人気だったスイーツに、”みたらし団子”もあります。
おそらく、いま食べられているものとそんなに変わらないと思います。

みたらし団子は、京で人々の健康を祈って食べられていたものだそうです。
五体(頭、両手、両足)を表し、1串に5個団子が付いていて、5文(約95円)でした。

京のB級グルメがお江戸に来ると、5つから4つになったそうです。
理由はというと、江戸後期になると、4文銭ができ、それが貨幣の中心となり、
5文だとおつりが面倒、
そこで4文にして、団子も4つにしたということだそうです。

現代人と違い、5個のまま値段だけ下げようという発想は、江戸人にはなかったみたいです。

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ここからは番組を離れて、団子のウンチク。(学登社、『「食」の文化誌』より)

団子のもとは、奈良時代に伝わった糖菓子の一つで、団喜(米粉を丸め、茹でて、甘葛を塗ったもの)とされているそうです。
丸い形が基本のようですが、必ずしも丸とは限らなかったみたいです。

近世になると、団子の名物専門店が各地にでき、その中でも著名だったのが、「御手洗(みたらし)団子」でした。
京都下鴨神社の水無月祓えのとき、境内で売られていて、山城の名産、とものの本にあるそうです。

社家の人がお公家さんに献じ、また水無月祓えの参詣者のために設営された茶店の名物だったようです。
当時のもののは、残された狂歌などから類推すると、どうも味噌ダレだったようです。

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再び、ふたたびBSTBSの『謎解き! 江戸のすすめ』から。

お江戸のスイーツの中でも大ヒットしたのが、大福だそうです。
大福は大好きで、漉し餡よりも潰し餡の方が好きなんですが、好みにはそれぞれ言い分があるでしょうからこれだけにしときます。

明和8年といいますから、西暦では1771年冬のこと。
小石川にお玉という女性がいました。

この女性にひらめきが降りてきました。
人気の餅の中に甘い餡を入れたら、売れるに違いない。
それまで塩餡やうぐいす餡はあったのですが、甘い餡はなかったそうです。

お玉さんはこれに大福餅という縁起のいい名前を付け、かごの中に火鉢を入れ、アツアツに焼いて売りました。
これが寒いお江戸で大ヒット! 大福の大ブームになったそうです。

註1.お江戸が今より寒かったのは間違いありません。
ましてや、着るものも粗末で、毛糸の靴下やブーツなんてものもありませんから、かなりきつかったと思います。

註2.今は技術がよくなって、大福の餅は柔らかさを長らく維持してますが、昔は時間がたつと固くなったものです。
硬くなった大福を、母親がよく網で焼いてくれたものですが、
お焦げがつくくらい焼くと、餅がパリパリになって、それはそれで、またうまいものでした…
(こんな話、同年代の人と飲み屋でやったら、盛り上がるだろうなぁ。)

ヒットの理由はもう一つあるそうです。
大福は、餅は炭水化物、餡の小豆に含まれるビタミンB1と相まって、即効性の高いカロリー源なんだそうです。
寒い江戸に、焼いた大福はぴったりのスイーツだった訳です。
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ふたたび「BSTBSの『謎解き! 江戸のすすめ』から。

番組によると、江戸はスイーツ天国、しかも女性より男性の方が甘いもの好きだった、とのことです。

肉体労働者が圧倒的に多かったので、仕事の合間に歩きながらでも栄養補給する必要があったからではないか、という理由です。

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8代将軍の吉宗は、サトウキビの栽培を奨励したんだそうです。
それまでは外国からの輸入に頼っていたのですが、このことによって国産砂糖の生産量が増加、砂糖が入手しやすくしなったこととも関係しています。

餅菓子は神様が宿る特別な食べ物として、古くから食べられていたんだそうですが、
江戸時代になると年中行事などにも餅菓子を作って祝うことが一般的になったそうです。

それに合わせてさまざまな餅菓子が作られるようになり、名物菓子も増えました。

今でもよく食べるさくら餅は、そんな一つだそうです。
あるお寺が、落ち葉を再利用できないかと考え、塩漬けにした桜の葉で桜色のあんこ餅を包んだのが始まりということです。

さくら餅ですが、包んである葉っぱは取って、餅だけ食べる人がいるんですが、もったいない話です。
あれは葉っぱごと一緒に食べたほうがおいしいんです。
塩味の葉っぱが餡の甘さを引き立たせてくれるんで、それまで餅だけ食べていた知人に教えたら、おいしさに驚いて、以来、ずーっと葉っぱと一緒に食べてます。(これ、ホントの話。)

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BSTBSの『謎解き! 江戸のすすめ』によると、
平安時代、貴族たちの間で「松茸狩り」が行われていたそうです。
江戸時代になると、関西の庶民の間で「松茸狩り」が行われ、採ったその場で鍋に入れて香を楽しんでいたそうです。

なぜ関西かというと、
松茸はほかのキノコに比べて、生存競争に弱いかららしいのです。
つまり、ほかのキノコや菌類が育ちにくいような養分の少ない貧弱な土壌じゃないと、松茸は仲間を増やせない。

松茸は赤松の木の根元だけに育ちますが、上方には赤松が多く、松茸が育つ環境が整っていたんだそうです。

なぜ西日本に赤松が多いのか。

西日本は水田が発達していて、昔はその肥料に山から落ち葉を取ってきて使ったんだそうです。
落ち葉を持って行かれると、山は栄養が足りなくなって痩せてきます。
痩せてくると、赤松くらいしか育たなくなる。
したがって赤松が増え、その結果松茸がよく採れるようになる、とまあ、三段論法的にこうなるわけです。
(ん? これでいいのかな? 使いなれない言葉を使って、恥かいてんのかもしんない。)

お江戸の近くは手つかずの雑木林が多くて、赤松が繁殖しにくかったわけで、
それでも全くないことはなかったんですが、江戸まで運こぶのに数か月かかり、届いたころにはもう香りがほとんど飛んじゃっていた。

松茸の特徴が、半減していたわけで、松茸本来の魅力が味わえなかった、
だから、まつたけなんぞより、シメジの方がよっぽどうめぇ、ということになったんですね。

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TVのニュースで、今年はマツタケの当たり年で、お値段も例年の3割安、何て言ってましたが、
毎週欠かさず見ている、BSTBSの『謎解き! 江戸のすすめ』で、ちょっと前、江戸のグルメ特集があり、マツタケの話もやってました。

面白かったんで紹介すると、
「匂いマツタケ、味シメジ」という言葉があり、お江戸ではマツタケより、シメジやシイタケのほうが好まれていたんだそうです。

ところは実は、マツタケなんかよりシメジの方がうまいに決まってらぁ、という気風の良さというより、
薫り高い新鮮なマツタケは、食いたくても食えなかったという、江戸っ子の負けん気と痩せ我慢から出た言葉かも知れないとのことです。

それが証拠に、
将軍様は、上野の国太田(現群馬県太田市)にマツタケ用の直轄林を持っていて、
寛永6年(1629年)頃から、上納松茸として、
約100kmの距離を、香りが飛ばないうちにと、大急ぎで江戸城まで運ばせたそうなんです。
なんでも、午前9時ごろ出て、翌朝の5時には江戸城に届いた、という記録も残っているんだそうで…

約20時間ということは、時速5kで走り抜けたわけです。
1人で運んだんじゃないでしょうが、山り谷あり、平坦な道ばかりのはずがないんで、スゴィ!
(オリンピックのトップマラソン選手は時速20k近くで走っているんですが、ほとんど平坦な場所ですから、単純比較はやめましょう。)

要するに、マツタケは将軍様くらいにしか口にできなかった高級食材だった、ということです。

ちなみに、群馬県太田市は、B級グルメ「上州太田焼きそば」で有名なとこです。
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山形県の港町、酒田市。
昔は庄内地方と呼ばれていましたが、ここに庄内麩と呼ばれるものがあります。
板状になっているので、板麩とも呼ばれます。

作り方は、鉄の棒に巻きつけて焼くまでは同じですが、そのあと蒸して柔らかくし、一本一本板状に伸ばしてから、機械で薄くします。

北前船で運びやすくするために板状になったといわれていますが、水に戻さず、そのまま割いて使うので、使い勝手はよさそうです。

そのほかにも、日本各地に独自の麩があります。

宮城県、仙台の「油麩」。
新潟県の「まんじゅう麩」。まんじゅうのように丸い形をしています。
京都の「丁字麩」。箱の形をした焼き麩です。
山口に行くと、「安平麩」。シュウ-クリームみたいな形。
石川にはすだれ模様の生麩、「すだれ麩」などがあります。
かすかな記憶なんですが、福島県の会津でも麩を焼いていた映像を覚えていますから、
まだまだ各地に麩の文化は残っているんだなぁ、と日本の奥深さをじんわり感じてしまう、秋の夜更けです。


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山形県東根市の六田区は「麩」が特産ですが、
麩を作るのには大量の水が必要となり、
またその水質が、麩の味を左右するのだそうです。

奥羽山脈からもたらされる水の恵みは、市内の小見川を流れ、
一年を通して13℃で一定の軟水は、国の名水百選の一つにも選ばれています。
(軟水について知りたい人は、こちらへ)

豊富な名水が麩作りに欠かせなかったことと、もう一つ麩作りりに欠かせない小麦、
なぜこの地に小麦が栽培されるようになったのか、意外なものがかかわっていました。
ベニ花です。

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山形は江戸時代、ベニ花の一大産地でした。
ベニ花は京のきれいなお姉さんの口元を彩るベニや、着物の染料として大変貴重なものでした。
芭蕉の句にも、「まゆはきを 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花」というのがあるんだそうです。

山形はその大部分を供給していたんですが、
このベニ花作りが麩作りと大いに関連していたんです。

ベニ花は、植え続けていると、連作障害を起こしやすい植物だそうです。
連作障害というのは、毎年同じ作物を同じ場所で作り続けると、病気になりやすくなることを言います。

そこでベニ花と小麦を交互に植えていたので、麩の原料である小麦が取れたというわけです。
肉食を禁じられていた江戸時代、麩は貴重なタンパク源でもあったわけです。

*ABS朝日「日本食紀行」より


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日本のおいしいものがいっぱいのショップ

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山形県東根市の六田地区は、庭から湧水が出ている家がいくつもあるほど、豊富な伏流水の恵みを受けた土地です。

この良質で豊かな水が、ご当地グルメ、六田麩には必要欠くべからざるものでした。

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麩を作るのは大変です。

小麦粉を水でこね、大量の水で、何度も何度も洗う作業を繰り返します。
水の濁りが無くなるまで洗うと、小麦粉のデンプンが洗い流され、タンパク質のグルテンが残ります。
量は半分ほどになってしまいます。

このグルテンが麩の原料です。
グルテンだけでは堅いガムみたいなので、生地を伸ばすために小麦粉を加え、
均一になるように生地を引き延ばしながら鉄の棒にまきつけ、焼き上げて麩が完成です。

普通の麩はグルテンより小麦粉を多く加えますが、六田麩は小麦の倍の量のグルテンを使います。
そのことによってコシの強い、煮ても崩れないしっかりした食感の麩になります。

タンパク質が貴重だった時代、良質のタンパク質で、保存のきく麩は、お客様が来た時くらいにしか出せなかった高級品だったそうです。

旅行者には、コシのしっかりした六田麩を食べて、肉だと勘違いする人もいるそうで、
食べたあと麩ときかされてびっくり、帰りには麩がお土産に加えられています。
当然ですね。

高タンパクで低カロリー、保存がきいて、どんな料理にも相性のいい六田麩は、理想のダイエット食品。
ダイエットと食欲のはざまで苦しんでいる貴女、おすすめです。

地元では、この六田麩を使った料理がいくつもありますから、
探せば、特級品のB級グルメ(A級じゃないからB級というんで、こういうのを、形容矛盾といいます。)がいくつも見つかりそうです。

*ABS朝日「日本食紀行」より

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山形県東根市の六田地区に『六田麩街道』というのがあるんだそうです。
街道沿いにお麩屋さんが5軒もあり、全国的にも珍しいとのことです。
確かに、街道を行くとお麩屋さんが5軒というのは、めったに見れるものではありません。

中には創業150年なんて老舗もあるそうです。

何とか街道というのは、全国に結構ありそうです。
有名な滋賀県の「鯖街道」、最近知ったのですが、長崎街道を別名「砂糖街道(シュガーロード)」というんだそうです。
ほかにどんなものがあるか、いつか調べてみようと思っています。

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六田麩は、とにかく腰が強く、煮ても崩れないことが特徴です。
見た目はフランスパン、スーパーで売っているようなものとは違い、
食感もしかりしていて、地元では味噌汁、肉じゃが、すき焼きと、どんな料理にも入れます。
ついには麩の懐石料理を作る店まで出しちゃった人がいます。

これだけ全国に誇れるご当地グルメを、もっと知ってもらいたいということです。
そして町おこし、そうなれば立派なB級グルメです。

麩は、生地を引き延ばしながら、2m近い鉄の棒に巻き付けて焼きます。
その時の力加減、厚さを均一にすること、これによって麩の味が決まるんだそうです。
そのうえ、季節や湿度にも注意を払います。

多分、作り方はほかの地方でもそんなに変わらないと思いますが、なんといっても六田麩は生地が違います。
原料のグルテンを、めちゃ多く入れます。
それが六田麩のコシの強さを生み出しています。

*BS朝日「日本食紀行」より

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BS朝日の「歴史発見 城下町へ行こう」で岩手の盛岡編を見ました。

食べ物の話の前に、岩手の名の起こりが面白かったので紹介しますと、
なぜか巨石伝説が多いんだそうで、烏帽子岩、石割けやき、天満宮の石割梅、そして有名な天然記念物石割桜、といったように巨石が多く残っています。

3つの大岩を祭った三ッ石神社の伝説によると、
昔民を苦しめていた鬼がいて、三ッ石の神様がこの鬼を岩に縛り付けて懲らしめました。
鬼は二度と悪さをしませんという誓いを立て、三ッ石に手形を残してこの地を去りました。
岩に鬼の手形。⇒岩手、とのことだそうです。

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岩手で有名なのが「わんこそば」。
「わんこそば」をB級グルメといっていいのかどうか、ちょっと悩みますが、ご当地グルメであることに、異存のある人はいないと思います。

南部藩2代目藩主の南部利直が参勤交代で江戸に向かう途中、花巻名物のそばを食べて、そばの椀を何度もお代わりしたことが起源とされているそうです。

もともと南部地方の地主さんたちには、「そば振る舞い」といって、冠婚葬祭などで、一口サイズの椀に入れたそばを腹いっぱいになるまで振る舞うという風習があったそうです。
米が育ちにくい南部では、そばが最高のもてなしでした。

これらが現代の岩手の名物、「わんこそば」に引き継がれているわけです。

そばといえば江戸っ子ということになりますが、落語家の古今亭志ん朝さんが、あるラジオの番組で、そばについての作法はいろいろ言われているが、一番お行儀のいい食べ方は、最後の一本のかけらまで残さず食べることだと、父の志ん生から教わった、と語ったことがあるんだそうです。
1、2本残ったそばを箸ですくうのは難しいのでは、と尋ねると、こうすりゃいいんだと、箸を笊(ざる)にまっすぐに立てて使って見せたとのことです。

粋な江戸っ子は、最後の一本までそばを粗末にしない、ということでしょう。


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